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信心

御本尊を写真に撮ってはいけない理由。

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最近、スマホアプリで御本尊の写真が元々入っていたり、自分で撮って携帯用の仏壇とする?アプリを見つけて吃驚しました。

ひと昔前の創価学会では「御本尊を写真に撮ってはいけない」と言うのは常識レベルの話でしたよね?
曰く謗法である、曰く罰が当たる、と。

学生部の時に聞いた笑い話で、
「発心して、唱題を頑張ろうと思った学生部員がいたが、仏壇は家族が寝ている部屋に近くて夜は出来ない。仕方がないので、ノートに鉛筆でじぶんで御本尊を書き写して壁に貼って唱題をしたらとたんに熱が出て寝込んでしまった。」
天罰覿面だな、なんて話がありました。

しかし、なぜ御本尊を複製したり写真に撮ったりしてはいけないのか。
そのことについて詳しく説明されたことはありません。

昔、学生部時代の先輩に訪ねた時「時間がないのでまた今度教えてやる」と言われましたが、残念ながらその後聞く機会がありませんでした。
ただその時にヒントとして、「コピーされた御本尊でも功徳はある」とだけ言われました。

それを思い出し、考え、考察してみました。

 そもそも御本尊とは何なのか。

戸田先生は御本尊を「幸福製造機」と例えられました。
御書には「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」(御書p1244)とあります。

「九識心王真如の都」とは仏そのものであり、十界で言うところの仏界の生命です。
人の心には本来、仏の生命が備わっている、しかしそれは怒り(修羅)や苦しみ(地獄)などの生命と同じ様に自由自在に出し入れできるものではなく、縁に触れて出てくるものです。
ではその仏の生命をどのようにすれば出すことが出来るのか。
その仏の生命を出す為に日蓮大聖人が「たましひをすみにそめながして」(御書p1124)顕されたのが御本尊です。

仏の生命を曼荼羅として書き表わされた御本尊に相対して南妙法蓮華経と唱える時に自分の生命が呼応して(縁して)仏の生命が出てくるのです。
十界具足(十界互具)とは十界の生命がそれぞれに十界の生命を持っているという事です。
仏の生命の中にも修羅の生命があり、地獄の生命の中にも仏の生命が有るのです。
ともかく、なんとか仏の生命に縁をして、仏の生命をいだして幸福になるための装置が御本尊なのです。

 ではなぜ写真に撮ってはいけないのか。

まず、御本尊は仏の生命として正しく書き表わされたものであり、書き写したり間違っているなどは言語道断です。(笑)
間違ったものを信じても、間違ったものが出てくるだけで幸せにはなれません。
(日顕の御本尊には書き間違いが多いらしいですが。(^_^;))

では、正確にコピーされた物や写真はどうなのか。
御本尊が仏の生命を出すための幸福製造機として作られたものであれば、コピーであっても功徳はあると考えるのが妥当です。
本はコピーでも読めてしまうし、楽譜でも、レシピでも、コピーされた内容が正確であれば、それによってもたらされる結果も同じです。
本物よりも本物らしいコピー商品なんてものも世の中にはたくさん溢れています。
お金をコピーしたら違法で捕まりますが、御本尊を複製してはいけないとは御書のどこにも書かれていません。

そもそも、ぶっちゃけて言ってしまえば、日蓮正宗でも創価学会でも現在下付されている御本尊は機械でコピーしたものです。
コピーとは写真にとってプリントしたものです。手書きで書かれたものは殆ど出回っていません。まあ手書きだからどうだってこともないんですけど。
正直、「日蓮正宗の御本尊は本物で、創価学会の御本尊は偽物だ!」なんて指摘自体が御本尊の本質を見誤っています。
ちなみに日蓮正宗の御本尊と創価学会の御本尊に違いがなければなぜ功徳に違いが出るのか。
それは使い方の問題です。正しい機械でも使い方を誤れば大事故になりかねません。
創価学会は日蓮大聖人の書かれた御書を根本にしています。そこが違うのです。

話が逸れました。では御本尊の写真を撮ることの何が問題なのか、それはその御本尊の扱い方なのです。
前述の御書の一文で「胸中の肉団におはします」といってなんとなくイメージするのは「心臓」ではないでしょうか。
たとえば、心臓は胸の中にあって血管とつながり、心膜や肋骨や筋肉などで守られていて、そのため問題なく動くことが出来ます。
心臓が外気や雑菌に晒されたり、傷がついてはあっという間に死んでしまいます。

同様に、御本尊も尊極なものと言われ、「触ってはいけない。息を吹きかけてもいけない。」と教えられた人もいると思います。
昔は仏壇の掃除や水を替える時もシキミの葉をくわえてしてましたよね。
(このあたりのことも今もちゃんと指導されてるのかな?)

つまり「自身の心臓にも等しい程大事にするべき、仏の生命である御本尊をどのように扱うか」という事が問題なのです。
御本尊を頂いた時は、きっちりと巻いて袋に入れて、懐に入れるなどして大事に持ち帰り、仏壇に安置します。
それと同等の事がカメラやスマホで撮った御本尊に対して出来るかと言うことです。
御本尊が写っている写真やスマホを雑に扱っていて「御本尊様を信じている、大事にしている。」では通らないのです。

 以信得入と謗法

前述の御書の一文に「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」とあります。
信じることによって功徳を得ることが出来るのです。

普段からよく気になっているのですが、他宗の寺社仏閣で売られているお守りやお札が、飲食店で壁に貼られて油でベトベトだったり、ホコリを被っていたり、
車にシールで貼られて色あせていたり、ルームミラーにぶら下げられてたり、カバンでキーホルダーといっしょになってボロボロになっていたり、
そーゆーのを見るたびに「本当にそれを信じてるん?信じているものをそんな扱いでええの?」と思ってしまいます。

日蓮大聖人の教えの中にお守り的なもの、お札的なものがないのもその為だと思われます。
学会には「お守りご本尊」というものが有りますが、これはキーホールダーではなく(笑)普段は仏壇にきちんとご安置して
旅行や出張に出かけるときなども、持ち運びはきちんと懐に入れたり宿などで場所があればご安置するなど扱いをキッチリするように言われています。
ちなみに私は出かけた先などできっちり扱う自信がないのでお守りご本尊は頂いておりません。

また、謗法とは誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、正法(仏法)を誹謗(そしる、けなす、くさす)など軽んじたり、貶める行為のことです。
昔は御本尊を頂いた際の袋ですら大事にとっておくか、自分で焼いて処分するなどして、ゴミ箱に捨てたりしてはいけないと言われていました。
今はどうなのか分かりませんが、そこまでする必要があるのか分かりませんが、そこまでして大事するというのが信じると言うことではないかと思います。

御本尊を写真に撮ってアルバムに入れて本棚の奥に放置、スマホで撮ってデータとして保存して必要な時に表示、
そういうのは正法を謗る行為、謗法であると考えられます。

御本尊が一般に下付されるようになったのはここ数十年のことであり、もとより日蓮大聖人の頃には中々お目にかかることすら無かったことです。
目の前に御本尊がなくても胸中の肉弾にあると信じて唱題をすることで十分に功徳は得られます。
謗法を犯さないように気をつけましょうね。

 

ちなみに、今はネットで検索すると、御本尊の写真などは山ほど出てるく世の中です。
見たくなくても表示させたくなくても、それっぽい検索で出てきてしまうことが多々有ります。
私なんかはそういう時は「申し訳ないなあ」という気持ちで心のなかでお題目を唱えながらスクロールアウトするか、ウインドウを閉じます。

非学会員の中にはアホらしい、と思う方もおられると思いますが、それはその人の考えなので仕方がないですね。

-信心

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